覚え書き

「写真」という技術革新によって写実画が被った影響とか、「じゃあ、風景画駄目で宗教画OKなの?」というのは少し触れたけれども、それって結局、その前の「映画はメディアの固有性を有しているか」という話にそのまま繋がる。
すなわち、「映画でなくては出来ない表現」が優れているのか、天使は存在しないのに、その視点から、「カメラ」を用いて現実を切り取ること、また編集によってその切り取った現実を色付けしたからこそ、その映画が固有性を有しているといえて評価できる作品であるのか、そもそも固有性とかあんのかという議論は、冒頭の問題とそのまま繋がると思う。私も、映画を観るようになって日が浅いのだけれど、たぶん、あの映像・音楽・三人称的なカメラ(撮影者は、物語に原則的には干渉できない存在)などなどの連携によって、何か物語的なものを構成するとしたら、その物語自体をある意味利用して、記憶の中に断片的に残る、印象、イメージ、その様なものを植え付けられているように思う。ゴダールが映画論の中で触れていたこと、私があれを見て、そのバラバラのコラージュのような断片であっても尚なんらかの印象を植え付ける力を映画は持ってるのかも知れないなぁと思ったことは、きっとその様なこと、なのだと、思う。その点に於いても、もちろん映画にもキッチュなものとそうでないものがある。あまりにエンターテイメントに隣接した領域だから、マジョリティはあまりにキッチュなものになるのだけれど。ただ、なんというか、言語にされていないからこそ記憶に正しい形で残らない、断片的な痕跡こそが、長期記憶で残る。だから、きっと、ベルリンは、今でも天使の気配がするような気がした。