http://www.fujitv.co.jp/events/art-net/go/338.html


結構有名どころを集めた初心者向けっぽい展示。
リキテンスタインの「積みわら」には笑った。
しかし、ウォーホルの「キャンベル缶」やら「マリリン」やらは、それを「記号」と認識するのはアメリカの生活をしている人であって、
私にとって、それは、そこまで象徴的な「何か」ではないから解らないなぁと感じる。


ぬいぐるみを使った写真があってちょっと考えさせられた。
そういえば、ぬいぐるみに何かを話しかけたり、あたかもそれが感情を持つみたいに本気で扱っていた時期というのが、確かにあった。
そして、いくつかの時に(年齢は忘れてしまった)
「これらは生きていないのだから、何か感情があるかのように振る舞うことは、子供っぽいことだし、馬鹿げているからやめなくては」
と思ってやめた記憶がある。
あれらは、とても可愛らしい「記号」であるのだ。
私たちは、その先に何かがあるように見るのを回避しなくてはいけないのだろうか。
ポップアートは、「記号」としてのマリリンはそれ以上の物ではないっていうことを示してるわけなんだろうけれど。
「ぬいぐるみは、あくまでぬいぐるみなんだよ」っていうのと、違うことなのか。
そうして、それは確かに理性であるだろうし、記号にいろんなものを投影しまくってる社会批判にはなるだろうけど、
その様な素朴な非理性(あるいは子供っぽさ)は、退けられなくてはならない物なのだろうか。