アメリカ、家族のいる風景 [DVD]

アメリカ、家族のいる風景 [DVD]


数十年前はプレイボーイ、今は孤独な初老の男である主人公が、『子供がいる』という情報を知って、昔の女を訪ねるロードムービー
おそらくこの作品は、ブロークン・フラワーズと並べて論じられるべきだろう。
片方は、遠慮がちに花を抱え、今なお「元プレイボーイ」として登場し、現在の彼女らと一瞬の交点を探る。
片方は、「父親」として現れ、再び家族たる彼らと共にある新しい生活を探る。


流石ヴェンダース映画らしい映像と音楽で切り取られる風景は、最初から最後まで美しい。
すなわち、カウボーイはカウボーイのように振る舞い、息子は家中の家具を二階の窓から放り投げ、娘は道ばたに横たわるソファーに父親と座り、彼を諭す。
この上なく贅沢な映画的経験だ。これを観ただけで、実は十分にお腹いっぱいになれる。


しかしながら、本作の問題点は、「Don't Come Knocking」に、(どういうわけだか)「アメリカ、家族のいる風景」などという邦題を付けてしまったことに集約する。
そもそも、彼らは「家族」なのであろうか、という疑問は禁じ得ない。
30年(そう、30年!「パリ、テキサス」の8年くらいとはワケが違う。子供は完全に成人している)失踪していて、子供が生まれたことも知らなかったクセに、老いて、将来の孤独に不安を感じ、子供がいることを知ってこれ幸いに仕事から逃げ出してきた男は「父親」であるのか?
アール(息子)が彼をはじめて見たときに言った「Who are you!?」に、主人公は「I'm your father!!」と即答した。
この時に感じる強烈な違和感は、「人は、別々に生きている場合は、繋がり得ない」「関係性を作ることは困難なことである」「関係性があってもなくても、人間は一人である」という様な、極めてプライベートな(けれど誰もが持っているような)価値観と相違するものだからだ。


30年離れていた主人公に対し、何の抵抗感もなく愛情を示し、アールとの和解を説き、「家族」をやり直そうとするスカイ(娘)は、彼女の身元がはっきりせず、どこから現れたか解らない為に、フィフスエレメントやらAIやらアンジェラやら、あの辺りの「空から降ってきた天使」的ですらある。
30年、プレイボーイも限界に来た頃に「父親」として第二の人生というわけだ。
本当は「Don't Come Knocking」であることは明白であるのに、あまりに主人公の求める家族像は安易に提供される。
映画的ご都合主義に対する苛立ちと言えばそれまでだ。ただ一つ確かにしておきたいのは、好ましい映画的ご都合主義とあまり好ましくない映画的ご都合主義があり、本作は後者である。


それに比べて、あの遠慮がちで丁寧だけれど、喩えようもないほど孤独である彼はどうであったか。
彼女たちを訪ねる前に、毎回花屋で綺麗な花束を作り、それを抱えて思い出に会いに行く彼は。
「僕のことを覚えているだろうか」と、毎回呟きながら、孤独を確認するために、感傷的に彼女たちに会いに行く彼は。
フィクションの中での「プレイボーイ」という設定が、本当に感覚的に理解できることが時折あるが、ブロークン・フラワーズはその典型だ。
つまり、彼が出てきてからほんの数十分で、彼のことを大好きになってしまうということ。


年月とは重く、過ぎたものは取り返せず、人は孤独である。
だからこそ、思い出はやり直すためではなく、追憶するためだけにある。
何もかも取り返しがつかないまま年をとり、記憶はなぞられるためだけに存在し、「僕のことを覚えているだろうか」と意味は無いのは承知で祈る羽目になる。


そう、記憶の中に痕跡が残ることだけが重要になって、何かをやり直すことなど出来ないし、したくもならないはずだ。
そもそも、共にいた記憶すら一度も共有しない者同士は、その様な追憶の中ですら「関係性」を共有することは出来ない。
だから、「家族のいる風景」など、最初から最後まで存在し得ない。あるのは「今更来ないで」だけだ。